(福岡県糸島市有田1)
国内最大級の内行花文八葉鏡を含む40面もの青銅鏡をはじめとする副葬品…、でも出土したのは驚くほどこじんまりとした墳丘墓なのでした。
令和5年2月現在、奈良県にある日本最大の円墳、富雄丸山古墳から国宝級の蛇行剣と鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡が出土してニュースになっています。
しかし、“メジャーな前方後円墳でないのに国宝級の副葬品が出土して一躍脚光を浴びた古墳”の元祖はこちらの平原王墓です。現在、平原歴史公園として整備されています。
推定されている築造時期は2世紀後半の弥生時代と古く、国内最大級の青銅鏡、内行花文八葉鏡5面を含む計40面の銅鏡が出土しています。でも、見に行くとその規模は20m程度の墳丘墓なのです。
国指定史跡 曽根遺跡群 平原遺跡
1982年(昭和52年)10月4日指定、2000(平成12年) 9月6日追加指定
1965(昭和40年)と1988(昭和63)~1999(平成11)年に発掘調査され、弥生時代中期初頭の竪穴式住居7棟、壷棺墓1基・木棺墓4基、弥生時代後期の墳丘墓3基・大柱遺構3基・特殊建物跡1棟・古墳時代前期の円墳2基・土壙墓12基・時期不詳の掘立柱建物3棟などが発見された。
このうち、弥生時代終末期の1号墓は14m×10.5mの長方形状の平面形で、幅1.5m~3.0mの周溝で区画し、排水溝を持った墓である。主体部である広さ4.5m×3.5mの墓壙中央には、長さ3.0m、幅0.7m~0.9mの木棺1基が納められていた。棺の内外から銅鏡40面、ガラス勾玉3点・管玉30点以上・連玉886点・丸玉500点・小玉482点、メノウ管玉12点、ガラス耳璫2点、水銀朱、鉄製素環頭大刀1本などが出土した。
特に直径46.5cmの古代で世界最大の超大型内行花文鏡5面を含む銅鏡などの豊富な副葬品から、1号墓は巫女的な性格をもった伊都国の女王墓であると推定される。
なお、超大型内行花文鏡を八咫鏡として、「日本書紀」などにみられる大日孁尊の墓と考える原田大六先生の説がある。
前原市教育委員会設置 王墓前の碑より
前方後円墳が登場するよりもはるかに前、古墳としては初期の形態なのでしょうか。でも副葬品は国宝だらけ。昭和40年に発見、発掘されてから25年経った平成2年に国の重要文化財に、平成18年には国宝に一括指定。近くの伊都国歴史博物館で見ることができます。ずらーっと国宝がならぶ展示室は圧巻で一見の価値あり。
平原弥生古墳
ここはかつて塚畑と呼ばれていました。
井手信英さんが農作業中に、突然、多量の銅鏡片などが出土。一九六五年(昭和四十年)一月のことでした。さっそく二月~五月にかけて前原在住の考古学者原田大六氏を調査主任として発掘調査が進められました。
驚きの発見の中で、特に注目を集めたのが三十九面にのぼる銅鏡群でした。さらに、日本最大の白銅鏡については、原田大六氏は伊勢神宮の御神体である八咫鏡と考察されました。それは、後漢尺で測ると直径二尺(四十六・五センチ)、その周囲は八咫(百四十五センチ)の寸法を持っていること。さらに『延喜式』や『皇大神宮儀式帳』に記された八咫鏡を納めた『桶代』の寸法が平原鏡の径に近いこと、『御鎮座伝記』記載の鏡の特徴が「八頭花崎八葉形也」から平原大鏡こそ伊勢神宮の『八咫鏡』と同型鏡であると結論づけられました。
さらに、原田大六氏は墓の副葬品に武器が少ないこと、装身具が多いことなどから被葬者を女性と推定され、そして、鏡・大刀・勾玉という『三種の神器』が副葬されていたことから『天照大神』(神格名・大日孁貴)の墓であると確信されました。
伊都国こそ『天皇の故郷』とする原田大六説の論拠は、ここ平原弥生古墳で見つかった『三種の神器』が東遷して大和に至ったと推測されたものです。
なお、この遺跡の発掘調査報告書は、原田大六著『平原弥生古墳 大日孁貴の墓』として発行されています。
現地看板より
当時、調査主任として発掘にあたられた原田大六氏は、埋葬されていたのは女性で天照大神のモデルとなった女王で、ここが大和朝廷の源流にあたるのではないかと考察されています。
ここから10kmほど東には、日本神話の三貴神が誕生したとされる、小戸もあり…
この地域が日本の創成期の地だったのかも…と思いを馳せていたら、曇り空から御日様が現れる。
この地で、このタイミングで見えるとただの太陽・・・ではなく、これぞ天照大日孁尊だと感じますね。
調査発掘報告書としてまとめられたという原田大六著『平原弥生古墳 大日孁貴の墓』はぜひ読んでみたいのですが入手は難しい…他の著作から集めて勉強していきたいと思います…。
キッズ向けの入門編にはこちらがおススメ。↓