(佐賀県唐津市和多田天満町)
唐津市和多田天満町にあるお宮。その名の通り周囲一帯の町名の由来となったものと思われます。
境内の石板の由緒によると
由緒
境内石板 由緒書より
慶長年間(1596~1614) 豊臣秀吉家臣 寺澤志摩守唐津城主になるに及び和多田堤防洪水の為、決潰するに依り天満宮を和多田中央部に安置し、之を祀りたるに始まるものなり。
もう少し詳しい由来はこちら
和多田天満宮由来
慶長年間唐津城初代城主寺沢志摩守廣高が松浦川改修の大工事を起し、和多田堤防築造の時、太宰府天満宮に工事の竣成を祈願して無事終了したので謝恩の為此の地に其の分霊をかしこみ祭り、永世鎮護の神と仰ぎ神田八反を奉納した。のちの水野候の頃、神田は取り上げられたが、里人は尚、産土神として崇拝衰えず社格制度にあたり明治六年村社に列せられた。明治四十一年六月神の浦の厳島神社を合せ市杵島姫尊を合祀された。
境内案内板より
!!!
こんな経緯があったのね。石板、字数の都合とはいえ端折りすぎぃぃい。
江戸時代の初期ごろの治水工事の成就を祈願してお祀りされるようになったお宮なんですね。後で確認したグーグルマップでのクチコミでは境内の手入れの行き届きぶりに言及されて高評価を獲得されてます。
神田八反奉納とあり、創建当初から崇敬篤かったことが窺い知れます。
1反=300坪で約991.7㎡。大人一人が養えるコメの量1,000合=1石が収穫できることから、8反の田んぼを奉納(維持管理のための収入源ですね)して、鎮護の神として神社を末永く祀っていこうという意図なんでしょう。
しかし、水野家が藩主となった時代に神田はとりあげられたともあり、これは冨田神社の御縁起にもあった虹ノ松原一揆の前の時期のことと推察されます。
参拝して由緒を読んでほほぅ、ほーんとしていたら、世話人とおぼしき男性が拝殿のなかにある牛をみせてくれました。境内の掃除のほか、補修なども熱心に手入れされているのだそう。いや、ほんとによく手入れされている印象はありましたが…
真新しく誂えられたピカピカの御神牛。菅公の肖像も飾られています。
「昔から大事にしとう天満宮やけど、道真公ゆかりのものがなーんもなかとが気になっとったっさ、次の春の例祭に合わせて御神牛を用意したっと。」
ピカピカの御神牛も、ご自身で色を塗りなおして、台も補修して合わせたもの。菅公の肖像も傷んでいたものを自身で修復して今回奉納したとか!
いいですね、天満宮愛があふれてます。
獅子狛犬もよくみると、目や牙には新しめの彩色がしてあります。これもこの世話人さんの手によるものでしょう。崇敬篤く大切にされている神社という意味である種のパワースポットといえますね。
そんな大事にされているお宮、和多田天満宮なのでした。
(令和6年4月奉拝)