(福岡市博多区吉塚)
吉塚の地名の由来となったお地蔵様。戦国時代の八女の武将、星野吉実・吉兼兄弟を祀る『吉実塚』から吉塚と呼ばれるようになりました。
吉塚地蔵尊のいわれ 戦国史家 吉永正春 文 天正十四年(一五八六)七月、薩摩の雄島津氏は、九州制覇を目ざして筑前に侵攻してきた。この時、筑後の武将星野吉実(ほしのよしざね)、同吉兼(よしかね)兄弟は部下三百余名を引きつれて出陣し、島津軍の命で粕屋郡の高鳥居城を守り、豊臣秀吉について立花城と相対した。 島津軍は岩屋、宝満の両城を陥し、八月に入って立花城を囲んだ。だが、関白秀吉の命を受けた毛利軍が豊前に到着したので、八月二十四日、立花城の囲みをといて、いっせいに本国へ撤退していった。 だが、星野兄弟は島津氏への義を守って、高鳥居城を守備したが、翌二十五日、立花、毛利の連合軍の攻撃を受けて激戦となり、星野勢の奮戦も及ばず全員戦死して落城した。 吉実、吉兼兄弟の首は、当時の那珂郡堅粕村に葬られ、“吉実塚”といっていたが、のちに“吉塚”となり、現在の地名になったといわれる。江戸時代の元禄頃、妙蔵尼という尼僧がここに地蔵堂を建て星野兄弟の霊を慰めていたという。明治二十六年には追悼記念碑が建てられた。毎年七月下旬に吉塚地蔵尊祭りが行われている。奉納昭和六十年七月吉日 吉塚地蔵尊四百年祭
堂内 掲示額より
こちらは絵馬が特徴的。いろんな世代の姿の『お願い絵馬』が目を引きます。早良区にある野芥縁切地蔵尊でも、この姿の絵馬がありますがあちらは『仲たがい絵馬』になってますね。
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